式内 浅間神社・葛神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 式内 浅間神社
読み:せんげん
延喜式神名帳
式内社 但馬国養父郡 淺間神社
読み:アサマ
『国司文書 但馬神社系譜伝』
浅間郷 浅間神社(東の異霊宮[クシヒシノミヤ])
式内社 但馬国養父郡 葛神社
読み:クス
『国司文書 但馬神社系譜伝』
葛(カツラ)神社(西の異霊宮)
読み:カツラ
所在地 兵庫県養父市八鹿町浅間字東房井戸前361-1
旧地名 但馬国養父郡淺間郷
御祭神
御祭神 木花開耶姫命(コノハナノサクヤビメ)
配祀神 八柱神社 国狭土命(クノニサヅチノミコト)
(以上「兵庫県神社庁」)
『国司文書 但馬神社系譜伝』天道姫命

合祀 式内社 但馬国養父郡 葛神社 素盞嗚命(スサノオ)
『国司文書 但馬神社系譜伝』 天火明命
例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
式内社

近代社格制度 旧村社

創建     年代不詳
本殿様式   流造銅板葺

境内摂末社(祭神)

大祥神社・稻荷神社

一口メモ

国道312号線JR八鹿駅裏を北に向かい、下小田交差点を出石方面へ向う県道2号線へ。これはかつて豊臣秀吉の但馬平定で、最初出石城を目指すはずだったルートだ。また浅間トンネルを出たすぐ左手の暮坂には、生野の変で追われて逃げる途中に出石藩に捕らえられ殉死した出石藩士多田弥太郎斬殺之地の顕彰碑が建つ。

浅間は「あさま」と読むのに、神社は「せんげん」と音読みなのはなぜだろう。富士山の浅間神社も「せんげん」と云うが、後述の通り無関係だ。
同じく養父郡の式内社で葛神社がある。式内社葛神社の旧社地がどこなのだろうか。所在地が浅間神社と同じ浅間の字堂ノ奥とあるので、浅間神社とそう遠くない付近だろうと捜したが分からないので、付近の人に聞くと、分からないが向かいの山に神社と云うほどではないが小さな祠がありますよと教えていただいたので、農道から捜してみたが獣よけの電線やらネットが張り巡らされておりそれらしき祠も下からは見えないので諦めた。
浅間神社は県道の鳥居から参道を歩いて奥まで行くと、やや右手に石段があり、広い境内があった。実は先に上の山道から探して見ていたので広いことは分かっていたが。

葛の読みは、『国司文書・但馬神社系譜伝』『校補但馬考』では「カツラ」としてあるが、「延喜式神名帳」にはクスとある。カツラ もクズも同じ植物。一般的には葛粉・くず餅の「クズ」という。

社殿は、入母屋造の拝殿と後方の一段高い場所に流造の本殿。左右に境内社が配されて立派な神社だ。個人的には但馬でもこれほど美しく広々とした配置の神社はあまり知らない。

社殿は、入母屋造の拝殿と後方一段高い場所に流造の本殿。左右に境内社が配されて立派な神社だ。個人的には但馬でもこれほど美しく広々とした配置の神社はあまり知らない。

歴史・由緒等

 

由 緒
創立年月不詳

延喜式の制小社に列し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。
昭和6年(1931)本殿、幣殿、拝殿、社務所を新築し同7年(1932)村社八柱神社同大祥神社を合祀せり

-「兵庫県神社庁」-

式内社 葛神社は、浅間神社に合祀されているのでここに併記する。

「国司文書・但馬神社系譜伝訳註」に、

浅間郷 浅間神社(東の異霊宮[クシヒシノミヤ])
養父郡浅間山鎮座*1 祭神 天道姫命
人皇一代神武天皇の十五代秋八月鎮座。天道姫命は、天火明命の妃にして、生産霊神(イクムスビノカミ)の女(娘)なり。

浅間郷 葛(カツラ)神社(西の異霊宮)
養父郡浅間村鎮座 祭神 天火明命(アメノホアカリノミコト)
人皇一代神武天皇の十五代秋八月鎮座。天火明命は、天忍穂命(アメノオシホ(ミミ)ノミコト)の御子なり。

※東の異霊宮・西の異霊宮 『国司文書 但馬故事記』には、東奇霊宮・西奇霊宮とあり、いずれもクシヒシノミヤと読む。
クシヒシがクシノミヤと短くなり、葛の字を当てて「かつら」と呼ぶようになったのではないか。

『国司文書・但馬故事記』第三巻・養父郡故事記
天火明命は、また天熊人命(あめのくまびとのみこと)を夜夫(ヤブ)に使わし、桑を栽培する地をあわせて作らせました。天熊人命は夜夫の谿間(タニマ)に着き、桑を植え、蚕を屋岡(八鹿)に養う。
故にこの地を、谿間の屋岡原と云う。
谿間の名はこれに始まります。(註 谿間は但馬の古名)

天火明命は、この時、浅間の西奇霊宮に坐(いま)し、天磐船命の子、船山命とともに祀りました。(式内 浅間神社:養父市八鹿町浅間)
(中略)

佐伎津彦命は、垂樋天物部命の娘、美津井姫命を娶り、阿流知命を生む。
佐伎津彦命・阿流知命は花岡宮(花岡神社)に鎮まり坐す。この地の開拓神なり。

天船山命は、船山宮に坐(いま)す。
天道姫命は浅間の東奇霊宮に、天火明命は西奇霊宮に鎮まり坐し、
美井津姫命は深谷丘に鎮まり坐すなり。

十五年秋八月、
佐伎津彦命は、国作大己貴命を朱近(夜夫の苗葉山)に斎き祀り、また天火明命を浅間の西奇霊宮に、天道姫命を浅間の東奇霊宮に斎き祀る。(式内 浅間神社)

『国司文書・但馬故事記』でも養父郡の起こりとしてくわしい、第三巻・養父郡故事記と第四巻・城崎郡故事記によれば、丹波(丹後)を開いた天火明命は、谿間(但馬)にやって来てまず豊岡原に御田(今の小田井)を開く。天火明命は、この時浅間の西奇霊宮に座し、妃の天道姫命の侍婢、嶋戸天物部命の娘、佐々守良姫命を娶り、佐伎津彦命を生む。天火明命は、子の稲年饒穂命を小田井県主(のち黄沼前・城崎)とし、次は南に行き、佐々前原にて佐久津彦命に佐田伊原を開かせ佐々前県主(のち気多)とする。天熊人命に夜夫(養父)に養桑を命ずる。天火明命は、佐久津彦命の子、佐伎津彦命を屋岡県主(のち夜夫・養父)とし、浅間原を開かせる。故にこれを稲栄大生原*2と名づく。伊佐御魂命を比地県主(のち朝来)とする。そして諸武神を率いて美伊県に至り、稲年饒穂命の子、武饒穂命を美伊県主とする。天火明命は神功すでに終わり、美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡り見て、丹波国を経て河内に入る。

まとめると、「養父郡故事記」によれば、天火明命は丹波(丹後)から但馬に来て、まず小田井(豊岡)を開き、佐々前(気多)、屋岡(養父)、比地(朝来)、美伊(のち美含郡*3)の順に開いた。

*1 浅間山鎮座 位置的に須流岐山。東奇霊宮とされる浅間神社・西奇霊宮の葛神社は須流岐山にそれぞれ祀られていた。
*2 稲栄大生原 今の伊佐・大江原(坂本含む)なので、浅間郷をさす。
*3 美含郡(ミクミ) 今の豊岡市竹野町。美方郡香美町香住区

境内・社叢

  
一の鳥居                     参道石段

  
二の鳥居・境内                  社殿と境内

  
拝殿                       本殿

  
境内社

地名・地誌

浅間郷
『国司文書別記 郷名記抄』(天延三年・975)
浅間郷は麁間郷なり。麁木(ソギ)建て新宮殿間の義。浅間神社あり、天照国照櫛明天道姫命を斎き祀る。この命は、天道根命の女にして、天火明命の妃なり。
また奇霊日神社あり、天照国照彦櫛玉天火明命を斎き祀る。
(奇霊日神社は葛神社のことか?)

『校補 但馬考』(明治27)
浅間郷
村数十二
上小田・下小田・伊佐・坂本・大恵(大江)・岩崎(イハサイ)・浅間・宿南(シクナミ)・青山・深谷(三谷)・赤崎・浅倉

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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5件のコメント

志都美 · 2012年9月2日 1:33 AM

こんばんは  

播磨国風土記の伝承を基準として見ますと、木花咲耶姫命は、オオクニヌシ(オオクニヌシ(大国主))(伊和大神)の妃、
火明命は、オオクニヌシ(オオクニヌシ(大国主))の息子となります。

ニニギ尊の人間関係と同じ位置にあるのが、オオクニヌシ(オオクニヌシ(大国主))大神です。
記紀神話は、出雲系の神話を乗っ取っているのではないでしょうか。

浅間神は、木花咲耶姫命とされることが一般的で、葛神を祭神葦原志許乎命とするのなら、
播磨国風土記をベースと考えるのならこの2夫婦神とするのが自然かと思います。

但馬神社系譜伝訳註による祭神は、但馬国造氏族の都合で、本来のオオクニヌシ(オオクニヌシ(大国主))と木花咲耶姫命が
彦火明命、天道姫命に置き換わっているようにも見えます。

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