往馬大社(式内大 往馬坐伊古麻都比古神社)
概 要
社 号 往馬大社
式内社 大和国平群郡 往馬坐伊古麻都比古神社 並大 月次新甞
通称:往馬大社と称し、通称は生駒神社
読み:古 イコマニイマスイコマツヒコ、現 いこまにいますいこまつひこ
所在地 奈良県生駒市壱分町1527-1
旧地名 大和国平群郡
御祭神 伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神、氣長足比賣命、足仲津比古命、譽田別命、葛城高額姫命、息長宿禰王
例祭日 10月第2日曜日(火神祭)
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座
大128(並月次新甞。就中31座預相甞祭。)小158座(並官幣。)
平群郡[ヘグリ]:20座 大12座 小8座
式内社(大)
近代社格制度 旧県社
創建 不詳
本殿様式 春日造
境内摂末社(祭神)
摂社十四社
文化財
鎮守の杜 奈良県天然記念物
一口メモ
磐船神社から国道168号線を南下し、阪奈道路の高架をくぐると西の旧道に入る。スマホのナビがバッテリー不足で使えなくなりさがすのに苦労した。生駒は古くは往馬と書いたようである。
歴史・由緒等
往馬大社の歴史は大変古く、創立年代は定かではありませんが、生駒谷十七郷の氏神としてこの地に鎮座し、奈良県内では大神神社や石上神宮と同様に生駒山を(神奈備(かんなび))ご神体として祀られた日本有数の古社である。また、境内を覆う鎮守の杜は奈良県の天然記念物に指定されており、太古から変わらぬ自然の森を今に守り伝えている。
神社で最も古い記述は『総国風土記』の雄略天皇三年(458)で、この年を御鎮座とすると、平成21年に1550年を迎えました。また正倉院文書にも記載が見られ、奈良時代からすでに朝廷との関わりがありました。平安時代の『延喜式(えんぎしき)』(927)では、往馬坐伊古麻都比古(いこまにいますいこまつひこ)神社二座が官幣大に列せられ、その内一座は祈雨(あまごい)の幣も賜っていた。
鎌倉時代に武家の守護神である八幡信仰が興隆し、当社でも五座の八幡神を合わせ祀り現在の七座となった。
ー『神社公式サイト』『奈良県観光局』奈良県神社庁よりー
古い書物や古文書によると神社名は、往馬坐伊古麻都比古神社、胆駒社(いこましゃ )、往馬大社、生馬大明神、生馬八幡宮、行馬社、生馬神社、生駒大宮、等多様でありますが現在は往馬坐伊古麻都比古神社と往馬大社の二通りに称しています。
7連の春日造桧皮葺の本殿が建つ。中央に伊古麻都比古命、その右に伊古麻都比咩命が祀られ、左から息長宿禰王命・気長足姫命・誉田別命・伊古麻都比古命・伊古麻都比咩命・足仲彦命・葛城高額姫命の順となる。
境内・社叢
鳥居・社号標
高座 管弦楽座
手水舎 楼門
狛犬
拝殿
本殿
参道境内社 祓戸社
南末社(本殿左) 本殿右に北末社
神社五社 生駒戎神社
御神木 落雷により二度の火災に遭ったが、今も枝から青々とした葉が伸びて、災いに負けない強い生命力の神木として篤い信仰を受けている。
地名・地誌
生駒(いこま)
太古の生駒は古代豪族の一つ平群(へぐり)氏の領地で、古代から中世と時を経るごとに平群氏の勢力は衰退し、『平群』という地名だけが残ることとなった。 奈良時代には都であった平城京の外周に位置する生駒(当時の平群)は生駒山のふもとに位置し、往馬坐伊古麻都比古神社(生駒神社)、生駒山口神社式内大社往馬神社社村の氏神様的存在でもあって近代の大和国平群郡南北生駒から奈良県生駒郡生駒町へと地名の変貌を遂げていったものである。 古代・中世の生駒は山間の寒村に過ぎなかったが、生駒山地は山岳修行の場として開かれていった(役行者が生駒山で暴れていた2匹の鬼を改心させ弟子にしたという伝説が在る)。一帯は南都と大坂を結ぶ街道として機能し、それらは現在でも清滝街道(現国道163号)、暗越奈良街道(現国道308号)として微かに当時の雰囲気を伝えている。
1914年には現在の近鉄奈良線にあたる大阪電気軌道が上本町 – 生駒 – 奈良間を開業し、生駒トンネルにより大阪との距離がかなり短縮された。
1918年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現・近鉄生駒鋼索線・生駒ケーブル)が敷設され、宝山寺の参拝客も依然として絶えなかった。
1959年に阪奈道路が片側1車線の有料道路として開通した。
1964年には近鉄奈良線の、従来の生駒トンネルよりも大型断面の新生駒トンネルが貫通し、これにあわせて導入された大型通勤電車によって、生駒から大阪への通勤輸送の役割がより強化された。
このころから大規模な住宅地建設が相次ぐなど都市化が本格的に進み、人口も急増し県内有数のベッドタウンとなった。
1971年11月1日に市制施行し、同時に市章を制定した。1914年には現在の近鉄奈良線にあたる大阪電気軌道が上本町 – 生駒 – 奈良間を開業し、生駒トンネルにより大阪との距離がかなり短縮された。
1918年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現・近鉄生駒鋼索線・生駒ケーブル)が敷設され、宝山寺の参拝客も依然として絶えなかった。
1959年に阪奈道路が片側1車線の有料道路として開通した。
1964年には近鉄奈良線の、従来の生駒トンネルよりも大型断面の新生駒トンネルが貫通し、これにあわせて導入された大型通勤電車によって、生駒から大阪への通勤輸送の役割がより強化された。
このころから大規模な住宅地建設が相次ぐなど都市化が本格的に進み、人口も急増し県内有数のベッドタウンとなった。
1971年11月1日に市制施行し、同時に市章を制定した。人口36000人。
1987年には、市の北部が関西文化学術研究都市に指定された。
1990年には県下3番目の10万都市となった。
地 図
交通アクセス・周辺情報
近鉄一分(いちぶ)駅から徒歩5分
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