新熊野神社
概 要
社 号 新熊野神社
読み:いまくまの
別名:「梛の宮」(なぎのみや)、権現さん
所在地 京都府京都市東山区今熊野椥(なぎ)ノ森町42
旧地名 山城国愛宕郡
御祭神 主祭神 熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)(=伊弉冉尊・いざなみのみこと)
例祭日 5月5日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 永暦元年(1160年)
本殿様式 熊野造(妻入形式。奈良県を中心に分布する春日造りをもとに 熊野本宮大社など正面に庇を設け、四方に縁をめぐらした形式。王子造、皇子造ともいう。)
境内摂末社(祭神)
社名 ご祭神 本地仏※
上之社
速玉之男大神(イザナギ命) 薬師如来
熊野家津御子大神(スサノヲ命) 阿弥陀如来
中之社
天忍穂耳命 地蔵菩薩
瓊々杵尊 龍樹菩薩
彦火火出見尊 如意輪観音
鵜葺草葺不合命 聖観音
若宮社 天照大神 十一面観音
下之社
稚産霊命(穀物・養蚕の神) 釈迦如来
軻遇突智命(火の神) 文殊菩薩 普賢菩薩
埴山姫命(土の神) 毘沙門天
弥都波能売命(水の神) 不動明王
樟社 樟大権現 樟龍弁財天
※本地仏 本地垂迹(ほんじすいじゃく)における神の正体とされる仏。仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。
文化財
本殿 市・重要文化財、大樟 市・天然記念物
一口メモ
東大路通(府道143号線)が東海道本線と交差する南側の分かりやすい場所だが、駐車所がないのでぐるぐる回って、他にも路駐があったので最終的に神社前に路駐した。
京都三熊野社。新熊野神社のほかに、熊野神社・熊野若王子神社を併せて「京都三熊野社」と呼ばれている。
能楽発祥の地
『申楽談義(観世元能著)』に「観阿(観阿弥)、今熊野の能の時、申楽(猿楽)ということをは、将軍家(足利義満)、御覧じはじめらるるなり。世子(世阿弥)、十二の年なり。」 と記されていることから、能楽発祥の地といわれている。しかし、その演能地が新熊野神社の境内だったことが定説となったのは、僅か 30 年程前に過ぎない。しかも、そのとき観世父子が何を演じたのか、その演目も全く解らない。まさに「幻の猿楽(能)」なのである。
歴史・由緒等
由 緒
当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。
その後350年間、当社は繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。
-「神社公式ページ」-
鳥居 社号標
大樟(クスノキ) 市・天然記念物 手水舎
狛犬
拝殿 本殿
本殿は拝殿とつながっているので見えない。 本殿左手 左から上之社・中之社
京の熊野古道
本殿右手 下之社
樟社 樟の手前
地名・地誌
今熊野
「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。「神社公式サイト」
地図
交通アクセス・周辺情報
京都駅から市バス208系統で10分弱。今熊野バス停下車徒歩3分
駐車場なしになっているが、神社公式サイトには参拝者駐車場が境内奥にあるようだ
公式ページ http://imakumanojinja.or.jp/
神社サイト
「京都十六社 朱印めぐり」 http://www.kyoto-16sha.jp/j_hokoku.html
参 考
「京都観光NAVI」
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