村社 平内神社(兵庫県美方郡香美町香住区余部)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 平内神社
読み:ひらうち
通称:へいないさん
平安時代『国司文書・但馬故事記』伊佐々神社(イササノ)
江戸時代は「御崎大明神」、「三宝荒神山王権現」と称していた

所在地 兵庫県美方郡香美町香住区余部2900-2
旧地名 但馬国美含郡餘部郷大祝部山

御祭神 野稚神 (ヌツチノカミ)
『国司文書 但馬神社系譜伝』五十狭沙別(イササワケ)命(またの名・五十狭芹彦命)
例祭日 9月15日
「百手(ももて)の儀式」 1月28日

社格等

『国司文書・但馬故事記』式外社
近代社格制度 旧村社

創建     正治2年(1200)6月、『国司文書・但馬故事記』人皇15代神功皇后3年(203)
本殿様式   一間社流造、柿葺 宝暦十四年(1764)(神社誌)

境内摂社(祭神)

一口メモ

日本一の高さを誇る有名な余部鉄橋から北の日本海へ突き出た岬に御崎がある。国道から御崎へ通じる道路入り口に式内伊岐佐神社がある。式内伊伎佐神社へは以前に参拝していたが、御崎は実は始めてであった。伊伎佐神社の元社がこの平内神社であるとする説があり、また平家落武者伝承の残る御碕は、一度訪ねてみたいと思っていた。御碕は、御埼灯台、平家落人伝承、分校跡などネタの宝庫なので、平内神社のみではなく他の神社2社と地名の由来、周辺情報も添える。

歴史・由緒等

寛延3年(1750)御崎大明神と改称 宝暦9年(1759)三宝荒神山王権現

由 緒 正治2年(1200)6月平教盛伊賀平内右衛門家長の霊祠を建て御霊荒神と称す。 慶長19年(1614)大阪冬の陣起り豊臣秀頼勇士を諸国に募る。御崎村門脇氏伊賀矢引氏其陣に加わりしも和睦によって帰国し翌年夏の陣起こるに及びて之に加わらんとして当社に占う。即ち凶なり。故に其の事を止むと伝う。 寛延3年(1750)受持神主笹尾佐中支配の時、御崎大明神と改称し、出石藩に届け出づ。 宝暦9年(1759)には三宝荒神山王権現と改称し受持神主の笹尾河内より出石藩に届け出づ。同14年(1764)3月21日遷宮を行い、安政2年(1855)6月平内天王の神璽を新調し本殿を再興す。 嘉永元年(1848)9月山王権現を再興して正遷宮を行い、明治6年(1873)10月村社に列す。 -「兵庫県神社庁」-

『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇15代神功皇后3年(203)夏6月、 五十狭沙別大神(イササワケノ オオカミ)を美伊県伊伎佐山に祀り、椋椅部首(クラハシベノオビト)を神人(ミワヒト)*1とし、祝部(ハフリベ)*2を定めました。またこの山を称して、大祝部(オオハフリベ)山といいます。(余部に式内伊佐々神社あり)

[註] *1 神人(ミワヒト) 神社に奉仕する神職のこと。祝子ともいう。固有名詞としての神人は、大国主命の5世孫・大田田根子命の裔を指す。(新撰姓氏録)

*2 祝部(ハフリベ) 神社の祭祀・管理・使用人の監督を行う部職。

『神祇志料』では、当社を余部の式内伊岐佐神社の元の社地とする説もある。 式内伊岐佐神社は、慶雲3年(706)7月諸国疫疾流行のため美含郡大領椋椅連小楢が、彦坐王命を伊岐佐の丘(伊伎佐山)に勧請したことに創まる。今より約1280年前のことであるが、神亀5年(728)5月、出雲色男命を勧請。更に天平7年には伊弉諾命(イザナギ)を勧請し主祭神とする。 一方、『国司文書・但馬故事記』で、人皇15代神功皇后3年(203)とするので、伊岐佐神社は、平打神社よりも古いことになる。伊岐佐神社裏手の伊岐佐の丘(伊岐佐)と伊佐々御崎を混同したのではないだろうか。しかし、さらに奥の高い場所に日吉神社があり、そちらが元社ではとの印象も捨てがたい。

境内・社叢

  
集落内に建つ御神燈            社叢

  
鳥居                   社殿

  
狛犬

  
左右境内祠


ご神木 「百手(ももて)の儀式」の弓矢が立てかけられていた

地名・地誌

余部(あまるべ)

餘戸(あまりべ)郷 令条に定むるところの郷。

里餘りある故(50戸に満たない場合、里を編成できない)に餘部と名いた。これが餘部という固有名詞に変わり、のち余部と字を改めたものであろう。

『国司文書・但馬故事記』註

御崎(みさき)

『国司文書別記・但馬郷名抄』 伊伎佐岬(また伊佐々岬) 彦坐命、陸耳(クガミミ)を追い、この海に至る。供奉(グブ)の神一柱、当芸利彦命ついに陸耳を刺し殺す。故にここを『勢刺御前』(イサシノミサキ)と称す。 帯仲彦天皇(仲哀)の皇后・息長帯姫命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)、越国笥飯宮(気比宮)より海路穴門国(長門国)豊浦宮に至るとき、この碕において日暮れたり。その時五十狭沙別(イササワケ)大神、御火を現す。これが為に海面明るし。故れこの御崎を名づけて伊佐々御前(御崎)と云う。御火は御船を導き、二方国の浦曲(ウラワ)に至りて止まりぬ。故れその浦を名づけて、御火浦(ミホノウラ)と云う。

平家伝承の地、御崎と「百手(ももて)の儀式」

平家一門の公達や武者たちが、壇ノ浦の戦いで破れ、落ち延びて人里離れた山間の僻地や孤島で細々と暮らしていたといわれる平家落人伝説の残る集落は全国各地にある。

香美町香住区にも平家伝承の地が5ヶ所あり、中でも香住区余部の御崎地区は、壇ノ浦の戦いで敗れた門脇宰相平中納言教盛(かどわきさいしょうへいちゅうなごんのりもり=平教盛、平清盛の異母弟)を大将とし、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門らが同じ船に乗り込み、遠く壱岐、対馬方面に逃れようとしたところ、日本海を漂流し香住の近くに流れ着き、磯づたいに御崎まで落ち延び、土着したといわれている。
当地にはそれを裏付けるかのように門脇家、矢引家が現存しここで生活されている。

また、御崎にはこの地にしか育たないといわれる「平家蕪(へいけかぶら)」という蕪が自生している。平家がこの地に身を寄せた際、土地がやせた人里離れた場所であったため、たちまち食料に窮してしまい、神に祈願したところこの蕪に恵まれるようになったといわれます。春には菜の花に似た黄色い花を咲かせ、現在でも一部の家庭では漬物にして食されています。

そして現在も伝承されている平家にまつわる行事の一つ、「百手(ももて)の儀式」が毎年1月28日(午後3時半頃から)に行われる。 氏神の平内神社で、門脇、伊賀、矢引の武将にふんした3人の少年が、境内の御神木に源氏に見立て掲げた的めがけて、地区内で採取した竹で作った弓矢で101本の矢を射るもので、歩射という弓の神事から始められたといわれている。 平家の無念を晴らすとともに、士気を鼓舞し平家再興を夢見て受け継がれてきた伝統行事です。

「引用参考:香美町」

  
駐車場                平家村の碑


門脇宰相平中納言教盛(かどわきさいしょうへいちゅうなごんのりもり=平教盛、平清盛の異母弟)の墓 平内神社の途中に道がある

  
御崎集落                       余部小学校御崎分校跡

  
御埼灯台

灯台だけの高さは14mだが、海面から光源までの高さが284mで、日本一高い場所にある灯台。92万カンデラという光の届く光達距離は、39.5カイリ(73km)で日本一を誇っていたが、2003年の算出条件の変更により23カイリ(43km)となり第一位の座を室戸岬灯台に譲った。 西は鳥取県東郷町、東は京都府の経ヶ岬まで光が届き、船の安全を毎日見守っている。御崎集落からさらに車道を登る。


御埼灯台から日本海

地 図

交通アクセス

鳥取豊岡道路余部インターから国道178号へ。余部橋梁を通り、余部地区内の信号を右折、約3キロ。(鳥取方面からは左折)御崎駐車場から徒歩で約300m

参 考

兵庫県神社庁・香美町


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