式内 女代神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号
式内社 但馬国城崎郡 女代神社
読み:古 メシロ 現 めしろ
所在地 兵庫県豊岡市九日市上町460-1
旧地名 但馬国城崎郡城崎郷新田村
御祭神
天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
配祀神 神産巣日神(カミムスヒノカミ) 高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)

延喜式神名帳には高皇産靈神(タカミムスビノミコト)
『国司文書 但馬神社系譜伝』は大売布命
例祭日 10月14日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
城崎郡(キノサキ):21座(大1座・小20座)
式内社

近代社格制度

創建
本殿様式

境内摂社(祭神)

稲荷神社・秋葉神社

一口メモ

国道312号船をカバン団地へ。通り過ぎる辺りにある。
かつて円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地でした。
女代遺跡から銅鐸片が見つかった。但馬で発見された銅鐸3箇所のひとつ。

歴史・由緒等

当社は延喜式神名帳に載する城崎郡21座の1社なり。

円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。往古祝融の災害により創立年月詳ならずと雖も古社たる事明かなり。

仁寿元年正月正六位(文徳帝御宇・西暦851年)
往古境内地五町四面なりしと伝えられる。当社御稜威の赫々たる事は古人の普く知るところにして、往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあると雖ども円山川氾濫に際して未だ嘗て階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず、豊岡領主京極家は家臣をして洪水に際し詣拝せしめ実地測量せしめし事天和(1681~1683)、元禄年間(1688~1703)等一再ならず、僅かに数間の距離に於て数尺の水の高低あると伝え聞く。

然るに天正5年(安土桃山時代・1577)社頭没収せられ其れがため祭祀衰えかつ寛永6年(江戸時代初期・1629)神主住宅並に社務所・宝庫焼失し当時の古文書悉く烏有に帰し史料空し。其の後明和3年(徳川時代中期・1766)古社大破せるを改築す。

-「兵庫県神社庁」-

御由緒

御祭神 は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。子に八意思兼神(ヤゴコロオモイカネノカミ=知恵の神)、萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)がいる。往古祝融の災害により創立年月詳不明ですが古社であることは確か。

仁寿元年正月(文徳帝御宇・西暦八五一年) 、当時境内地は五町四面と伝えられており、広大なものでした。古くは浮島明神と称せられ、神殿が田圃の低地にありながら、円山川の氾濫に際しても未だ浸水したことはなく、このことから浮島の名称が付けられたようです。

天正五年(安土桃山時代)に社頭は没収せられ、祭祀は衰えました。寛永六年( 江戸時代初期)、神主住宅並に社務所・宝庫焼失し、当時の古文書はことごとくなくなりました。その後明和三年(徳川時代中期)、古社改築。

文化五年(徳川時代後期)、神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる。神祇官 西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実にあります。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため、現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものです。

『国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)

人皇十二代景行天皇三十二年夏6月、伊香色男命(いかしこおのみこと)の子・物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷を征伐せしことを賞し、その功により摂津の川奈辺・多遅麻の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮(今の豊岡市日高町国分寺売布神社辺り)に在り。多遅麻物部氏の祖なり。

『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡 〃)

人皇十二代景行天皇三十二年秋七月、伊香色男命(いかしこおのみこと)の子・(物部連の祖)大売布命(おおめふのみこと)を以って、黄沼前(城崎)県主と為す。大売布命は、気多の射楯宮にあって、この地を領(うしは)き知(おさ)む。来日足尼命(くるひのすくねのみこと)は其の久留比宮に鎮まり坐せり。(久留比神社:豊岡市城崎町来日)

『国司文書 但馬神社系譜伝』

人皇十二代景行天皇の三十二年秋七月、伊香色男命(イカシコオ)の子・大売布命を以って、黄沼前(城崎)県主と為す。大売布命は、気多の射楯宮(今の豊岡市日高町国分寺売布神社辺り)にあって、この地を領地す。

人皇四十代天武天皇の三年夏六月、城崎郡司・物部韓国連久々比これを勧請す。(以下、『国司文書 但馬故事記』第四巻との重複につを省く)

境内・社叢

  
鳥居                        手水舎

  
狛犬

  
拝殿                        拝殿扁額


本殿

  
摂社 稲荷神社         円山川を往来していた往時の船が保存してある

地名・地誌

女代遺跡銅鐸片

女代遺跡から銅鐸片が見つかった。但馬で発見された銅鐸3箇所のひとつ。

1992年、女代神社前から鞄団地にかけての工事では、周知の遺跡(女代神社遺跡)の近接地で、豊岡市教委が現状確認に出向いた際、女代神社南遺跡の土から銅鐸の鰭部分の破片を発見しました。同時に採集した遺物は、弥生時代から中世までの時期幅のある土器片が若干みつかりました。その時の遺物散布状況や急遽実施した簡易な試掘による所見では、銅鐸片を含む採集遺物は遺跡の緑辺部にあたる比較的希薄な包含層のものと見られた。

破片は、銅鐸の側面に取り付く鰭の一方の下端部分。両面に文様が鋳出されており、表面は緑青がふいて、淡い緑色を呈している。文様は明確に観察でき、2条の突線で縁取りがされた内部に鋸歯状の文様が1 1単位連続している。破片の中ほどの外部には、半円を2個並べた飾り耳が付いている。本体の長さは約1 3㎝、幅約2㎝、厚み1 . 5?3m mを測り、飾り耳は幅2㎝、高さ1 . 3㎝のものが2連取り付いている。重さは約4 0gであった。上端の折れ曲がりは比較的新しい可能性もあるが、本体と接合していた部分の破断面の状態をみると錆も古く、破損の際の力の作用からか一方向にわずかな盛り上がり(歪み)が観察できる。こうしたことから、意識的に破砕された銅鐸の例(いわゆる破砕銅鐸)である可能性がきわめて強い。

この段階の例としてはかなり小型である。聞く銅鐸から見る銅鐸への変換時期の資料として貴重な例である。時期的には気比銅鐸より新しく、日高町久田谷銅鐸より古く位置付けられ、但馬地方では新形式の銅鐸である。破片で見つかった例は全国に約20例あり、突如銅鐸が用いられなくなることの意味を考える上で、こうした破砕銅鐸の実態が注目されている。

-豊岡市教育委員会-

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

-神社公式ページ- http://meshirojinja.com/

『延喜式の調査』さん、他

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