2.古代社格制度
官社(式内社)
国家(朝廷)の保護を受けた神社を、全て「官社」と呼ぶことができる。しかし通常は、朝廷より祈年祭班幣を受ける神社のことを言う。この制度の始まりは明らかではないが、大宝元年(701年)の大宝律令によって規定された。古代において、どの神社が官社であったのかは断片的にしか明らかではないが、律令時代末期の平安時代中期に編纂された法令『延喜式』(延長5年(927年))が現存しており、ここに官社リストが掲載されている。これを「延喜式神名帳」という。
平安時代中期に編纂された『延喜式』の格式(律令の施行細則)で、三代格式(弘仁格式、貞観格式、延喜格式)の一つである。三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、細かな事柄まで規定されているため、古代史研究のうえで重視されている。『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の神名帳のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧である。
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座する神の数は3132座である。
式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺とされた神社(神宮寺)、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。式外社だが六国史に記載がある神社を特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社も含む)。
国史見在社
国史見在社(こくしげんざいしゃ)は、六国史に記載のある神社のことである。国史現在社・国史所載社とも言う。ただし、「六国史」に見える神社はほとんどが式内社であるため、通常は式外社について用いる。格式高い神社として、後世になって特別視された。
官幣社と国幣社
官社とは、毎年2月の祈年祭に中央の朝廷の神祇官から幣帛を受ける神社のことであり、各官社の祝部(はふりべ)が神祇官に集まり幣帛を受け取っていた。その後、延暦17年(798年)に、引き続き神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。式内社では、官幣社が573社737座、国幣社が2288社2395座である。国幣社が設けられたのは、遠方の神社では祝部の上京が困難であるためとされるが、遠方でも重要な神社は官幣社とされている。
官幣社
朝廷管理(現在で言うところの中央政府管理)=官幣大社:198社304座/官幣小社 :375社433座
国幣社
各国国司管理(現在で言うところの各都道府県庁管理)=国幣大社:155社188座/国幣小社:2133社2207座
この場合の大小は、当時の社勢の違いによるものとされていた。また、官幣社が、中央直轄系となるため、京都を中心とした畿内に集中し、国幣社は、逆に、全て畿外(地方)に指定されていた。さらには、これら式内社の中から、特にその霊験が著しく高いという意味を込めて、「名神」のタイトルを賜る神社もあり、その全てが大社であったことから、「名神大社」と呼ばれる神社もあった。ちなみにこの時に、「神宮」の称号を付されていたのが、伊勢神宮と鹿島神宮、香取神宮の三社のみであり、こちらもかなり別格扱いされていたということが分かる。
ただ、そのような官社制度も、律令制が崩壊後、中央の基準から外れることとなり、明治時代に改めて、官幣社/国幣社を用いた社格制度が復活するようになった。しかし、そのタイトルは同じでも、意味は相当異なるため、こちらの場合には、やはり「式内社」と表記された上で、実際の社格が表示されるなどの違いがある。
延喜式神名帳
延喜式神名帳とは、延長5年(927年)に編纂された三代格式のひとつであり現存している延喜式成立当時の神社を記載した延喜式の9、10条をとくに『延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)』という。延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっています。
式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺とされた神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。式外社だが六国史に記載がある神社を特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社も含む)。
式内社
日本最古の社格と呼ばれるものに「式内社」があります。神社の入口に社号標といって石柱が建てられいることが多いのですが、「式内 ◯◯神社」と書かれています。「式内」って何だろうと思った方も多いと思います。拙者も子供の頃にそう思ったひとりでした。これは、平安時代に律令制度が整備されるにつれ、新たに示されるようになったもので、延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味です。
式内社の意味
神名帳は、単なる当時の神社総数目録を意味するのではなく、当時の律令制における一機関である神祇官(じんぎかん)が神社を統括するようになり、彼らが、由緒正しき霊威ある神社を認定するとの趣向で編纂されたものとなります。官社帳ともいう。そのため、ここに掲載されるということは、当時として、非常に格式が高い神社と認められたことになる(この制度を官社制度と言う)。
本来「神名帳」とは、官社帳ともいい、古代律令制における神祇官(じんぎかん)が作成した官社の一覧表を指し、国・郡別に神社が羅列される。官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛(へいはく)を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。
延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、座(坐)は祭神の数をあらわし、一社に二座以上祀られている神社もあるので、式内社は2861社であるが、3132座となっている。
式内社の社格
神社の格式。祭政一致に基づき、朝廷などにより定められた。具体的には、この式内社は、官幣(かんぺい)社、国幣(くにべつ)社の大枠で2種に分類され、さらにそれぞれ大小に区分され、以下の計4種の神社に選別される。
式内社の中には、祈年祭以外の祭にも幣帛を受ける神社があり、社格とともに記された。
名神 — 特に霊験著しい「名神」を祀る、臨時祭の名神祭が行われる神社。全てが大社であるため名神大社(名神大)という。*1
月次(つきなめ) — 月次祭(6月と12月の年2回行われる祭)に幣帛を受ける神社
相嘗(あいなめ) — 相嘗祭(新嘗祭に先立ち新穀を供える祭)が行われる神社
新嘗(にいなめ) — 新嘗祭(毎年11月に行われる一年の収穫を祝う祭)に幣帛を受ける神社
*1 例外的に中央の大和国、山城国の式内社のなかには、理由が分からないが「名神大」と、名神をつけない「大」の神社が混在する例がある。
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、「名神祭」の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。「式内社 並大 月次新嘗」とある神社は、「式内大社」を意味し、名神祭が行われる神社とは別のものである。宮中祭祀のひとつ新嘗祭で収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。
『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。
名神祭(みょうじんさい)
名神祭(みょうじんさい)は国家的事変が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である。「名神祭式」に規定されるが、そこには対象とする神社名・座数・幣物の色目が記載されるのみなので、 その起源や詳しい儀式次第を知ることはできないものの、儀式次第については後述する祈雨神祭との類似から、『江家次第』に記す丹生川上・貴布祢両神社に対する祈雨・止雨のそれや、『朝野群載』に記す祈雨祭の祝詞が参考になるとされる。
具体的な祈願の例としては、天平宝字8歳(764年)11月癸丑(20日)の藤原仲麻呂の乱における仲麻呂誅討の報賽として近江国の名神社に奉幣したとある、実際に政治的事変が起こった際に行われた記事が初見であるが(『続日本紀』)、延暦7年(788年)5月己酉(2日)の詔勅に「伊勢神宮及び七道の名神に祈雨す」とあってから以後は、記録に残る例は畿内の名神に限る場合は祈止雨を、全国名神に及ぶ場合は豊稔の予祝や災害の予防といった抽象的なものを祈願したものが大半を占める(上記弘仁12年の官符参照)。
特に畿内の名神については、同じ臨時祭である祈雨神祭と重なるものがほとんどであることからその関連性が指摘でき(幣物の色目もほとんど同じである)、祈雨神祭に連なるのは名神と山城・大和両国の山口神や
例えば、奈良の春日大社は、「延喜式神名帳」には、大和国添上郡[そえがみ]:卅七座(大九座 小廿八座) 春日祭神四座(並名神大。月次新甞。)とあります。
祭神が座といわれ、1神の場合は名神大、2神以上の場合は並名神大と記します。春日大社は四座で、「名神祭」の対象となる複数の神々(名神)を祀る神社であることを表し、「並名神大。月次新嘗」と記されています。また「名神祭」が行われない式内大社は「大、月次新嘗」などと記されます。
論社
式内社の後裔が現在のどの神社であるのかを比定する研究は古くから行われている。現代において、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)・比定社(ひていしゃ)などと呼ばれる。
式内社の後裔としてほぼ確実視されている神社であっても、確実な証拠はほとんど無く、伝承により後裔の可能性がきわめて高い論社という扱いである。延喜式編纂時以降、社名や祭神・鎮座地などが変更されたり、他の神社に合祀されたり、また、荒廃した後に復興されたりした場合、式内社の後裔と目される神社が複数になることもある。
論社には、他の研究によって後裔社だとされることもあるが、その神社自ら式内社であると主張することも多い。
[註] 幣帛(へいはく)神にたてまつるものの総称。幣(ぬさ)、〈みてぐら〉(充座の意)、〈いやじり(礼代)〉ともいう。一般に神饌(しんせん)に対して棉(わた=綿)、麻、絹、(またはそれらを混合したもの)を原糸とする布、織物といった繊維製品の総称である布帛(ふはく)の類を幣帛ということもある。幣帛(みてぐら)の上に宇豆乃(うずの)、布刀(ふと)、安(やす)、足(たる)、大(おお)、豊(とよ)などの美称をつけることが多い。
「延喜式」には,幣帛として、絁(あしぎぬ)(粗製の絹布)、五色薄絁(いついろのうすぎぬ)、倭文(しどり)、木綿(ゆう)、麻、庸布、刀(たち)、楯(たて)、戈(ほこ)、弓、靫(ゆぎ)、鹿角(しかのつの)、鍬(すき)、酒、鰒(あわび)、堅魚(かつお)、腊(きたい)(干物)、海藻、雑海菜(くさぐさのもは)、塩、その他が見える。神饌のほか,幣帛料、金幣といって金銭をあてる場合もある。
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文献 | 延喜式神名帳(『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」) |
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参考:世界大百科事典、百科事典マイペディア、ウィキペディア2,317 total views, 2 views today
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